死ぬ日が来るまで

生きることに疲れました。希望のない日々の記録です。

信仰のワナ

「一生お金に困らない生き方」を読んで、当初「神社ミッション」を実行しようかしまいか迷っていた。
実行するにせよしないにせよ、迷いを断ち切るために改めて本を頭から精読して、はっきり決めようと思った。
読み進むうちに、著者の主張に論理的な根拠がないこと、再現性が疑わしいことが次第に明らかになり、結局「神社ミッション」は実行しないことに決めた。
本来、実行した結果こうなったと記事にすることはできても、実行しなかった結果こうなったと記事にするのはおかしい。
なぜなら、実験というのは何か作為をした結果を記録してその間の因果関係を考察するものであって、何もしないことの結果というのは記録しようがないからである。
例えば、前から歩いてくる人にいきなりキスしたらどうなるか、という実験ならできる。
もっとも、サンプルを10回も取らないうちにトラブルになって、お巡りさんが飛んでくると予想できるけれどね。
しかし、キスしなかったらどうなるかという実験は意味がない。
何も作為がないので、記録しようがないからである。



「神社ミッション」をしなかった結果というのは、だから本来意味のない記事である。
それでも、スプリットランのできない人生では、不作為の結果を記事にすることも場合によっては意味のあることかもしれないと考えて書いておくことにした。




もったいぶるほどのことではないのだが、先週55万円の臨時収入があったのである。
家内から年金の手続きを手伝ってくれたお礼だと言って、5万円もらった。
これは、ある程度想定内の収入だったかもしれない。
「本当に年金が貰えるようになったら、あなたにもお裾分けするからね」と、言われていたからである。
もう一方の50万円の方は、まったく期待していなかった収入だった。
これで破綻寸前だった私の懐具合が、一時的にもせよ持ち直すことが出来たのである。



もしも、私が「神社ミッション」を実行していたとしたら、このことをどのように解釈したであろうか。
家内からもらった5万円はともかく、50万円の方は、おそらく「神社ミッション」の効果だと解釈したのではないだろうか。
そして再び「神社ミッション」を実行したのではないだろうか。



実際には「神社ミッション」を実行していなかったので、臨時収入を「神社ミッション」の効果だと解釈することはできない。
単なる偶然と考えるか、日ごろの行いが良いからと考えるか、生まれる前から決まっていた運命だと考えるか、いろいろ理屈は付けられるけれど、「神社ミッション」の効果でないことは確かである。



何かをしてもしなくても、良いことも悪いことも起こる。
それが人生である。
「神社ミッション」のように、効果を期待して何かを行った後に良いことがあれば、そこに因果関係を認めてしまうに違いない。
信仰なんてそんなことが発端になるのではないだろうか。
それは、ワナなんじゃないかと思うのだ。



でもね、お金が入ったときに、「神社ミッション」でなくてもいいけど、何かをした結果だと思えたら楽だよね。
またおまじないをすればお金が入るんじゃないかと期待できるもの。
何だか分からないけどラッキー!  というのでは、これからどう頑張ればいいのか分からないよ。
これからどうすればいいのだろうか。
人生は、まだしばらく終わりそうもないのだが。